俋俋乎耕而不顧(ちつちつことして耕して顧みず)

タイトルは荘子から借りました。論理学と東洋思想を比較しながら、科学、芸術、スポーツについて日頃感じたこと、考えたことを書いていきたいと思います。

Steel Ball Runで哲学をする①知性とは何か

これから何回かに渡って知性とは何か、について考えていきたいと思う。

 

ここで考えていこうとしているのは、弱いAIには無く、強いAIに必要とされるモノである。また、猫や犬、カラスなどが持っていて、IBMのワトソンのようなものには無い能力である。よって知識や情報の多寡、計算速度の速さ遅さを言おうとしているのではない。

 

また、雑誌などでAIに取って代わられる職業とそうでない職業などの特集記事をよく目にするが、それらの差に関してのものでもある。

 

Steel Ball Runの主人公であるジョニィ・ジョースターは親子の因果関係に苦しめられている。因果関係は古くは仏教で考えられてきたテーマである。統計学でも統計学的因果推論と言って因果関係を扱う領域がある。

 

ジャイロ・ツェペリは、医者であり、法の執行人の家系に生まれた。感情を持ち込まずに法を厳格に守ることが正義だと教えられて育ったが、疑問を持つようになる。

 

合衆国大統領ファニー・バレンタインは功利主義者であり、合衆国の為に正しいことを実行する勇気を持っている。ただし、正しいことを正当化するためにはある種の権威が必要であることを理解しており、その為に遺体を欲しがっている。

 

アメリカ原住民であるサンドマンは、白人から自分達の土地を奪い返す為に白人のルールに乗った。そして白人社会での権力の源である金を得ようとする。

 

ホット・パンツは生き方の規範を宗教に置いている。

 

ディエゴ・ブランド-は獣の世界のように力こそがこの世を支配すると信じて行動している。

 

そしてポコロコは世の中には人の力では乗り越えられない運命があることを象徴している。

 

次回はルーチンワーカーとクリエイターについて考えてみたいと思っている。

ヨーダの言葉

人は誰でも、目の前の事象を見て、仮説を思いつく。科学者にとっては検証することが大切だ。ところがこの検証するというのは、言うほどやさしくはなく、訓練と忍耐強さを必要とする。

 

思い浮かんだ仮説をあたかも真実であるかのように主張する人間、盲信する人間は一流にはなれない。少なくとも科学者ではない。仮説はあくまでも仮説であって、正しいかどうかはきちんと検証されなければならないからである。検証された事実は、科学でいうところの再現性、普遍性という、現実世界での力を発揮できる事実となる。

 

ここでヨーダの言葉をいくつか見てみよう。

 

Many of the truths that we cling to depend on our point of view.

(我々のしがみついている事実の多くは、我々のモノの見方に依存する)

To be Jedi is to face the truth, and choose.

ジェダイになることは真実を直視し、選ぶことだ)

A Jedi's strength flows from the Forth.

ジェダイの力の源はフォースから来る(フォース=仮説に囚われず、検証する力))

In the end, cowards are those who follow the dark side.

(結局、ダークサイドに落ちる者は臆病者なんじゃ(自分の思い込みでしかない仮説を真実と勘違いし、検証することをしない人ってどうなんでしょうね))

The dark side clouds everything. Impossible to see the future is.

(ダークサイドは全てを覆ってしまう。それでは未来を見通すことはできない(検証されていない思い込みで未来を予測することなんて無理でしょうね))

A Jedi uses the Forth for knowledge and defence, never for attack.

(仮説でしかないものを真実であると主張するには力が要る。それも他者を思想的に屈服させる力である。これに対し、Jediの用いる力は真実を明らかにする(検証する)力であるので知識であり、攻撃はしない)

To answer power with power, the Jedi way this is not.

(仮説に過ぎないものを主張する者同士は、力と力のぶつかり合いになる。Jediの方法はそういう方法ではない(仮説を検証し、真実を明らかにしていく方法なので))

観自在であること

これまで我々が物事を考える時には抽象化が必要だということを述べてきた。

 

抽象化とは、まず言葉により物事を表現すること。科学においては、もっとも適切なモノサシ、尺度を選び、その定義の中で比較を行う等をしていること。そして事象を見て思い浮かんだだけでは仮説に過ぎず、現実に正しいかどうかは検証を行わなければならない。

 

こうした一連の作業は我々の思考の中にある。実在の”モノ”を我々の感覚を通して、抽象化された世界で考える訳である。

 

般若心経の出だしを見てみよう。

 

観自在菩薩、行深般若波羅密多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。。。。。色即是空、空即是色。受想行識、亦復如是。。。。

 

観自在菩薩が、最高の知恵(悟りに至る知恵)について行を深く行っていた時、五蘊の全ては空であると解った。我々が実在と考えているもの、感じるもの、想うもの、意思、認識するものは空(無)であると。

 

つまり、我々の思考の中のものであり、実在はその外にあるものだと。このことを自覚することが悟りの知恵であると。

 

無知の知。どんなに考えても自分が正しいと思い込んでいる人間は間違っている。

たとえどんなに勉強し、知識を学んでも、たとえどんなに論理的に自分の考えを主張しても、自分の考えが正しいと思っている以上、それは正しくない。

 

科学者はそんなことをやっている訳ではないし、芸術家でも、アスリートでも、はたまたビジネスマンでも一流になればなるほど、そんな考えを持ってはいない。と言うか、そんな考えでは一流になれない。正しいのは道を実践している者だけである。

 

f:id:vulcanB1:20170819000728j:plain

 

私が家に帰るとクルミがゴロゴロ喉を鳴らして嬉しそうに近寄ってくる。

きっと大好きな私が帰ってきて喜んでいるんだろう。。。よしよし、おやつをあげよう。

 

。。。家内は『私にだってやるよ。あなただけじゃないわよ。餌をおねだりしてるだけなんじゃない?うちの母親が来てた時もやってたよ。誰でも嬉しいのかも??』

 

くるみのゴロゴロの理由として考えられるのは色々。どれが正しい理由なのか?このまま、譲らないと喧嘩になる。。。それなら科学的な方法で決着をつけよう。事実をもって真実を語らせよう、という訳だ。と、声に出してしまうとこれまた喧嘩になりかねないのでここは、そっと心の中でつぶやく。

 

科学の思考方法では、クルミが私を好きでゴロゴロ言っているのか、誰にだってやるのか、餌が欲しいだけなのか、全部本当かもしれないし、全部そうでないかもしれない。またはそのうちの一部が本当で、残りは違うかもしれない。これらを仮説と言い、科学者はそれら仮説の一つ一つを検証し、真実かどうかを確かめていくのである。

 

例えば、クルミが”私のことだけを好き”という仮説を検証したいなら、”私が来た時”と対照として”家内が来た時”または”その他の人が来た時”のクルミの状態(アウトカムという)を比較する。こうやって問題を仮説に切り分け、一つ一つ検証していく訳であり、検証された結果(法則)は、現実に力をもったものとなっていく。

 

だから科学者は、一度全ての仮説を受け入れ、様々なデータを参照しつつ、もっともらしい仮説のいくつかを検証していくのであって、どの仮説(意見)が正しいとか、自分の意見こそが正しいなどと主張しないのである。そこに無知の知の自覚がある。(ソクラテスの弁明を読めば同じことが書いてある。その他、禅の話や様々な科学者も無知の知については言及しているので、興味のある方は探してみると良い。)

 

冒頭で挙げた科学者だけでなく、一流のアスリート、芸術家やビジネスマンが実践しているのは常に仮説を現実世界で試し(検証し)、現実に結果を残して来たからである。彼らには、自分の考えは正しかったが、状況が違って上手くいかなかった、という言い訳はあり得ない。そこで負けているのである。結果を残した者が正しいことをしてきたのである。そこに道がある。

 

ついでに言わせて貰うが、検証せずに仮説だけで終わってしまう、思いついた仮説をさも正しいかのように主張する人間は何も考えていない。ただ、事実を見て、理由を思いつく範囲で挙げている、言わば反射的に思い浮かべているだけである。

 

愚者ほど自分の考えに囚われ、無駄な努力をする。それはいくら論理的に考えても考えていないに等しい。思いつきに過ぎないからである。賢者は事実から真実を洞察し、正しい道を模索する。そして賢者の見出した法則は現実世界で実現する力を持ったものである。そこには無我がある。

 

神社で祀られているのは”かがみ”。真ん中の”我”を抜くと”かみ”である。現実に力を持った言葉は言霊となる。『中庸』の中に”至誠神の如し(または、通ず)”という言葉があるのをご存じだろうか。

世界を抽象化して眺めてみる。モデル化するという行為。

世界をモデル化するということは抽象化した世界で考え、現実に当てはめるという行為である。

 

ニュートンは木からリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を思いついたとか。。。

 

その真偽はともあれ、ニュートン力学では物体の垂直方向への自由落下速度は、重力加速度g×時間tの関数、即ちg・tで表される。

 

当然、我々凡人はそんな馬鹿なと思うだろう。鉄球や羽毛、その他、様々なものが地上に落ちてくる速度が同じ式、それも大きさや形状(摩擦や抵抗)、その他諸々の違いを無視して表せるなんて信じられるだろうか?そして実際、それらの落ちてくる速度はそれぞれ違う。

 

ここでニュートン(科学者)が行っているのは、モデル化という行為である。即ち、大きさは無視、質点という大きさが無いものを想定する、そのことにより現実では影響する筈の摩擦や抵抗を無視できる、といった行為である。そして実際、鉄球の様なものの方が羽毛などの摩擦や抵抗を無視できないよりも精度よく落下速度を推測できる。羽毛などの落下速度や落下位置などを正確に推測するには、更に複雑な因子を入れたモデル化が必要なのである。

 

だから、前述の自由落下の関係式は信じる、信じないの問題ではなく、信じれば上手くいく場合があり、上手くいく場合というのはボールを投げる時とか、弾丸を発射する時とか、割合と見分けやすいのである。

 

ここで科学者が行っている行為を注意して見てみたい。科学者は、世界をモデル化、抽象化して考えるにあたり、いくつかの要素を敢えて無視しているのである。ここに論理の飛躍がある。何を無視するかは、目的とセンスによる。AIにはできない行為である。

 

モデル化するという行為は科学の基本である。生物学や社会学ではこのモデル化は、無視できない因子の多さ故、更に難しく、予測不能になる。そこにセンスの良し悪しが問われるのは当然であろう。ただ、因子が多くなるとAI的というか、パターン認識の様な手法を使った方が手っ取り早いと感じられる。そのうち多変量解析とパターン認識を並べて考えてみようか。。。