俋俋乎耕而不顧(ちつちつことして耕して顧みず)

タイトルは荘子から借りました。論理学と東洋思想を比較しながら、科学、芸術、スポーツについて日頃感じたこと、考えたことを書いていきたいと思います。

技術を超えたもの

先日、『セッション』という映画を見て、荘子に出てくる丁という名の料理人が、文恵君の前で牛の解体をする話を思い出した。彼が牛を解体する時は、得も言われぬ調和が生じ、周囲に響き渡るというのである。丁が言うには、それを足らしめているのは技ではない、と言うのである。スティール・ボール・ランのジャイロ流に言えば*、『技術を超えた何か』であろう。

 

このブログでは、この技術を超えた何かについて色々書いていきたいと思う。

 

『セッション』を見て自分なりに感じたことを書いてみる。主人公の師である教授は、リズムマシンの様に完璧なリズムを求めていないし、それを可能にする技術も求めていない。それら、形而下のモノではなくて、もっと人間的なモノに、物事の本質があるということである。

 

「誰でも子供の時は芸術家であるが、問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかである」、「ようやく子供のような絵が描けるようになった」はパブロ・ピカソの言葉である。

 

技術を超えたところにあるもの、それは技術を駆使してもどうにもならない、と悟った時に見える事もある。ジャイロはジョニィに言った。『4回、「できない」と言った時に教えてやる』と。4回目に「できない」と言ったジョニィが見たものはなんだったのか?

 

技術や理論でどうにかなる領域。その様な領域はリズムマシンやコンピュータにやらせればよいのである。

 

ロバート・パーシグ著『禅とオートバイ修理技術』では、大学の評価のみを目的に入学した生徒をラバに例えている。そして、その様な学生はドロップアウトした時、社会と言う道場で矛盾に出くわした時に、自由な人間になるチャンスがあると。高い身分におさまったラバとして金と時間を浪費するかわりに、真の意味における彼の身分は高くなっていると。

 

*ジャイロとジョニィは共に荒木飛呂彦氏の漫画”スティール・ボール・ラン”の主人公。この作品には、因果、功利主義、禅の世界が詰まっているので、いつかまとめて書いてみたいと思っている。