俋俋乎耕而不顧(ちつちつことして耕して顧みず)

タイトルは荘子から借りました。論理学と東洋思想を比較しながら、科学、芸術、スポーツについて日頃感じたこと、考えたことを書いていきたいと思います。

情緒の世界。現実と言葉の間。

我々は考える時、普通、言葉を使う。

その言葉の生まれる瞬間について書いてみたいと思う。

 

まずは、下の写真を見て欲しい。

下手くそで見るに堪えない、と思われた方は自分のお気に入りの写真でも何でもいいから別途用意して欲しい。

 

とりあえず自分の写真で説明させて頂くことにする。

写真を見て、なんでも良いので思い浮かんだことを言葉にして欲しい。

 

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 ”きれい”、”海”、”青”、”空の青”、”海”、”紺碧”、”広々”、”行ってみたい”、”暑そう”、”懐かしい”、・・・人それぞれに色んな言葉が生まれてきたと思う。

 

ここで書き留めたいのは、どれが良いとか悪いとか、正解とかではなくて、言葉がどう生まれて、どういう性質のモノか?である。写真≒現実を見て、その次に我々の感じる心が在って、そのうちの一部を言葉に表わしている、ということである。

 

この、”現実”⇒”感じる心”⇒”言葉”の”感じる心”を”情緒”と呼ぶことにする。この”情緒”は藤原正彦先生(”国家の品格”の著者)の”祖国とは国語”の中の”情緒”や岡潔先生の一連の著作の中で登場する”情緒”と同じ意味であるし、吉田武先生の”虚数の情緒”の”情緒”でもあり、科学者にとってとても大切なものなのである。

 

付け加えておくならば、武道や一流のアスリートにとっても重要である。例えば、ボクシング。相手のパンチを”ジャブが来たから左にダッキングして、左からのパンチで攻撃につなげよう”などと言葉にして考えているのではなく、目で状況を判断し、適切に攻撃動作に移っていく、非言語の思考を使っている。非言語の思考の利点は言語を介さないことによる時間の短縮、スピードだけではない。先ほどの写真の例で言えば、言葉で思考しようとすると、”海⇒青”、”日差し⇒暑い”、など一つ一つバラバラに考えなければならない。一方、非言語による思考は並列に進む。全体が見渡せる。いわゆる直観というものである。これは即ち、禅でいう”ありのままを観る”ということであり、知性の源泉である。

 

これが無いと言語で論理的に考えるロボットのようになってしまう。そう言えば、人工知能にとって代わられ難い分野に科学、芸術、スポーツ、一流の企業経営者、というのがあったっけ。言葉による論理的思考は大切である。でも、それだけでは一流になれない。

 

デカルトは何故、虹の研究をしたと思うかい?””虹が美しかったからだよ”(ファインマン

 

ファインマンさんだけでなく、アインシュタインポアンカレ、優れた科学者は優れた芸術家でもある。

 

次回は、科学者はどの様にこの直観、”情緒”を使っているかについて書いてみたいと思う。