俋俋乎耕而不顧(ちつちつことして耕して顧みず)

タイトルは荘子から借りました。論理学と東洋思想を比較しながら、科学、芸術、スポーツについて日頃感じたこと、考えたことを書いていきたいと思います。

モノサシを決めるということ

いきなりだが、下の2枚の写真を比べてみよう。

 

無茶なことを・・・とお思いだろうか?

まあ、とにかくやってみて欲しい。

”人の数を比較する”、”空の青さを比較する”、”木の数を比較する”、・・・自由にモノサシを決めれる筈だ。

 

しかし、これらのモノサシがなんだって言うんだ?意味がないじゃん、と思ったあなたは正しい。これから話すことは、科学でいうモノサシを決めるということを考えてみたいからだ。

f:id:vulcanB1:20170723194348j:plain

f:id:vulcanB1:20170723194631j:plain

 

例えば、筆者の専門分野である薬を比較してみる場合を引き合いに出してみる。エルロチニブとゲフィチニブという肺癌に使われる薬がある。二つの薬は共にEGF受容体という細胞増殖に関わるたんぱく質の働きを阻害して癌細胞の異常増殖を止める作用がある。つまり似たもの同士の薬である。これらを比較してみよう。

 

さて・・・何を比較するのか?分子量、色?色々考えられるが、がんの薬である以上、その効果を比較するのが皆の興味の湧くところであろう。そこで”効果”というモノサシで比較する。抗癌剤の効果の比較は、一般的には、平均的な生存期間とか、癌が進行しない期間をモノサシとして使う。

 

さて、抗癌剤の比較に使えるモノサシはこれだけだろうか?他にもある。抗癌剤の場合は副作用も気になる。例えば、皮疹の出る割合、下痢を起こす割合、発熱を起こす割合など、様々な副作用の頻度で比べられる。この様に、比較するためのモノサシは無数に存在する。しかし、どれ一つとっても全体、即ち、全てを現すことはできない。

 

科学は、比較する際に目的にあったモノサシを選択している。つまり、意味のあるモノサシを選んでいるということ。そしてそれは言葉によって思考の為に抽象化されたモノであり、対象の一つの側面であり、全てを包含するものではない。

 

科学をする最初の入り口。それは現実を見て、適切なモノサシを抽象の世界に構築することである。これには”情緒”の力、すなわち感受性が必要ということである。禅で言う”ありのままを見る”、人が自分の頭の中で言葉にする以前の世界に遊ぶということである。

 

今、PCの前にうちの”猫”が寝そべっている。だが、これは私やあなたの頭で抽象化された”ネコ、(=^・^=)、ねこ”とイコールではない。

 

科学を使いこなすには、言葉の限界、論理の限界を意識しなければならない。そして科学者になるには、論理の外の世界、現実を感じることが重要だ。