俋俋乎耕而不顧(ちつちつことして耕して顧みず)

タイトルは荘子から借りました。論理学と東洋思想を比較しながら、科学、芸術、スポーツについて日頃感じたこと、考えたことを書いていきたいと思います。

世界を抽象化して眺めてみる。モデル化するという行為。

世界をモデル化するということは抽象化した世界で考え、現実に当てはめるという行為である。

 

ニュートンは木からリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を思いついたとか。。。

 

その真偽はともあれ、ニュートン力学では物体の垂直方向への自由落下速度は、重力加速度g×時間tの関数、即ちg・tで表される。

 

当然、我々凡人はそんな馬鹿なと思うだろう。鉄球や羽毛、その他、様々なものが地上に落ちてくる速度が同じ式、それも大きさや形状(摩擦や抵抗)、その他諸々の違いを無視して表せるなんて信じられるだろうか?そして実際、それらの落ちてくる速度はそれぞれ違う。

 

ここでニュートン(科学者)が行っているのは、モデル化という行為である。即ち、大きさは無視、質点という大きさが無いものを想定する、そのことにより現実では影響する筈の摩擦や抵抗を無視できる、といった行為である。そして実際、鉄球の様なものの方が羽毛などの摩擦や抵抗を無視できないよりも精度よく落下速度を推測できる。羽毛などの落下速度や落下位置などを正確に推測するには、更に複雑な因子を入れたモデル化が必要なのである。

 

だから、前述の自由落下の関係式は信じる、信じないの問題ではなく、信じれば上手くいく場合があり、上手くいく場合というのはボールを投げる時とか、弾丸を発射する時とか、割合と見分けやすいのである。

 

ここで科学者が行っている行為を注意して見てみたい。科学者は、世界をモデル化、抽象化して考えるにあたり、いくつかの要素を敢えて無視しているのである。ここに論理の飛躍がある。何を無視するかは、目的とセンスによる。AIにはできない行為である。

 

モデル化するという行為は科学の基本である。生物学や社会学ではこのモデル化は、無視できない因子の多さ故、更に難しく、予測不能になる。そこにセンスの良し悪しが問われるのは当然であろう。ただ、因子が多くなるとAI的というか、パターン認識の様な手法を使った方が手っ取り早いと感じられる。そのうち多変量解析とパターン認識を並べて考えてみようか。。。