俋俋乎耕而不顧(ちつちつことして耕して顧みず)

タイトルは荘子から借りました。論理学と東洋思想を比較しながら、科学、芸術、スポーツについて日頃感じたこと、考えたことを書いていきたいと思います。

3つの解決方法

よくある例え話だが、乗っていた船が難破し、救命ボートに乗り移ったとする。乗ってるのはあなたを含め3人。幾日も漂流し、食糧も尽き、水もあと僅かしかない。このままでは日が沈む前に皆生き延びられないだろう。明日まで生き延びるには誰かに犠牲になって貰わねばならない。

 

こんな時、3つの解決方法があるように思う。

 

ひとつは、強いものが勝つという論理。弱肉強食、自然の掟。

 

もうひとつは理性、即ち理論を使う方法。

功利主義的に考えるなら、幸福を最大化し、不幸を最小化するという考え。そんな理論。。。しかし、ここでもうひとつの理論が出てくる。果たして、功利主義という理論的な考えがあるからと言って、人の命を犠牲にする理論が正しいのか?と。即ち、倫理的に赦されるのか?と。この様に世界を論理的に解決しようとすると理論同士の板挟みになる。かくして幸福と不幸のバランスはどれ位なら許容できるのか?という議論になる。こうした社会では社会が納得する基準が無いと物事は解決しない。仕事でもそう。理論だけで考える人間はメリット、デメリットを洗い出し、動けなくなる。

 

そして最後の方法は心で解く方法。

武士道、プラトン流に言えば、勇気とかそういった形而上学の力。

日本の武士道的な考えなら、誰かを犠牲にするだろう。社会の幸福にとって残すべきは誰なのか?と。自分が犠牲になるべきならそうするし、他に犠牲になるべき人間がいれば、涙を飲んでそうする。その判断は命の重みを知り、責任を持たないとできない。そして後に、その判断が間違っていたとわかったならその時には責任を取るのである。

 

センスとアート(2)

我々は対象物を見て、それを様々な言葉に写し取る。

 

芸術であれ、スポーツであれ、科学であれ、現実世界で世界で実績を残している人は皆、対象物の本質と言うか、ありのままを捉えるのが上手い。そして時には言葉に表しきれなくなってしまう。

 

自分の本職は自然科学である。自然科学は論理を使っは自然を記述する。芸術家やアスリートは技術を使って現実と対峙する。対象物をありのままに、本質を、捉えることができないと一流になれない。

 

対象物のありのままの姿、物事の本質を捉える力を“センス”、論理や技術と物事の本質とを結びつけ力を“アート”と自分は呼んでいる。

 

一流の科学者は芸術家でもある(アインシュタイン

 

荘子、外編には斉の桓公と輪職人の扁の話が書かれている。

斉の桓公がある時、堂の上で書物を読んでいると、輪扁が車の輪を作っていた。輪扁が「殿様のお読みなのは、どんな言葉ですか」と問いかけると「聖人の言葉だよ」と返す桓公。「それなら殿様の読まれているのは古人の残り滓ですね」と輪扁。申し開きを迫る桓公に輪扁が答えるには「私めは自分の仕事の経験に照らして考えているのです。車の作り方にはコツがあり、口では説明することができない。それ故、そのコツを自分の子供に伝えることができない」と言うのである。

 

 

センスとアート(1)

絵でも写真でも、お気に入りのグッズでもいい、なんでも良いので身の周りにあるものをちょっと眺めてみて欲しい。

 

しばしの間。。。何かを感じただろうか?

 

『空の青がきれい』だったり、『懐かしい思い出がこみ上げてきたり』、『清流の流れる音の中でキャンプした楽しい思い出』だったり、『つらい思い出』だったり、『なんとなく心が落ち着いたり』、『わくわくしたり』。いろんな言葉が浮かんだりしないだろうか?

 

そして、少し戻って考えて欲しい。ものを眺めて、言葉になるまでにギャップがないだろうか?何かを眺めて、感情がワーッと広がって、その後で言葉が浮かんでくる、そのギャップ。

 

我々は、何かを感じ、思い、考える時に言葉を使う。しかし、言葉になった瞬間に真実は限定されてしまう。

 

知り合いのM子さんはセミプロの歌手である。普段は口達者な彼女が大好きなアーティストを語る時、そのアーティストを思い浮かべながら、『えーと、なんて言うか、、、、えー、兎に角、・・・素晴らしいのよ』と“素晴らしい”としか表現できなくなってしまう。

 

ボクシングの師匠のWさんはパンチのコンビネーションを表現する時に『そこはバン、バン、バンではなく、ババン、バーンだ。自分のパフォーマンスを見せるつもりで』と野球の長嶋さんみたいな発言で自分を途方に暮れさせる。

                                                                             〈つづく〉

 

技術を超えたもの

先日、『セッション』という映画を見て、荘子に出てくる丁という名の料理人が、文恵君の前で牛の解体をする話を思い出した。彼が牛を解体する時は、得も言われぬ調和が生じ、周囲に響き渡るというのである。丁が言うには、それを足らしめているのは技ではない、と言うのである。スティール・ボール・ランのジャイロ流に言えば*、『技術を超えた何か』であろう。

 

このブログでは、この技術を超えた何かについて色々書いていきたいと思う。

 

『セッション』を見て自分なりに感じたことを書いてみる。主人公の師である教授は、リズムマシンの様に完璧なリズムを求めていないし、それを可能にする技術も求めていない。それら、形而下のモノではなくて、もっと人間的なモノに、物事の本質があるということである。

 

「誰でも子供の時は芸術家であるが、問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかである」、「ようやく子供のような絵が描けるようになった」はパブロ・ピカソの言葉である。

 

技術を超えたところにあるもの、それは技術を駆使してもどうにもならない、と悟った時に見える事もある。ジャイロはジョニィに言った。『4回、「できない」と言った時に教えてやる』と。4回目に「できない」と言ったジョニィが見たものはなんだったのか?

 

技術や理論でどうにかなる領域。その様な領域はリズムマシンやコンピュータにやらせればよいのである。

 

ロバート・パーシグ著『禅とオートバイ修理技術』では、大学の評価のみを目的に入学した生徒をラバに例えている。そして、その様な学生はドロップアウトした時、社会と言う道場で矛盾に出くわした時に、自由な人間になるチャンスがあると。高い身分におさまったラバとして金と時間を浪費するかわりに、真の意味における彼の身分は高くなっていると。

 

*ジャイロとジョニィは共に荒木飛呂彦氏の漫画”スティール・ボール・ラン”の主人公。この作品には、因果、功利主義、禅の世界が詰まっているので、いつかまとめて書いてみたいと思っている。