映画『メッセージ』と神道、禅
今日、やっとのことで厚木まで行き、観そびれていた映画『メッセージ』を観てきました。
個人的にはなかなか良かったです。
詳しい考察は、いつか映画を見直すか原作を読んで書きたいが、忘れないうちにメモ程度にポイントをまとめておきます。故に論理展開が雑なのでそこはご勘弁願います。
言語による論理思考と情緒の世界。論理思考だけでは対立を産み出す。
論理で発展してきた西欧社会が、明治に日本という、論理があるかないかも理解できない、情緒を大切にする民族に遭遇したこと。その日本は何故か、他のアジア諸国と違って民族の分裂を避け、植民地化を免れ、西洋技術を短期間で習得し、列強に伍する力を持ってしまったこと(科学には情緒が重要であるということは前のエントリーで一部説明)。論理の世界と情緒の世界の対比は岡倉天心の『book of tea』が参考になる。
その日本には古くは『和を以て尊しとなす』という憲法を残した聖徳太子がいて、その憲法の中で『明察功禍』というその人が何を為すか、未来を予測して扱いなさい、という言葉を残していること(逆に、西洋の考え方を取り入れた現在の処罰は既に起きてしまったことに対する処罰である)。
思考はその民族の言葉に左右される。日本語は、和歌に代表されるように言葉に情緒を持たせ、少ない言葉から様々なイメージを広がるようになっている。これに比べ、英語に代表される西洋言語は、物事を定義(限定)しやすく、論理的展開がしやすい。
武士道における戦いは相手に対する敬意を以て為されること(いのちを奪う相手に対する『いただきます』という敬意も同様)。だから謝謝。
論理だけで効率を重視すると社会はどうなるか?
例えば、人間関係。
楽しい時だけ一緒。面倒な時はお互いに干渉しない。
そんな希薄な人間関係と肉親や親友との人間関係を比べてみる。
肉親や親友は面倒な時も支えなくてはならない。苦楽を共にするのである。
理由は好きだから。ただそれだけ。論理などを超えた世界。失敗した時は支え合う。だからずっと続く。お互いにつまらなくなったり、メリットが無くなれば終わってしまうような関係ではない。だから謝謝。
今の企業同士は、技術、商品とそれに見合う価格で取引が決まる。その場、その場で最適化、効率化が図られ、技術や商品に価値を生み出せない企業はどんどん脱落していき、強いものが勝ち残る。だから西洋の企業は短命である。そして王族も。日本の企業や天皇制を比べてみると良い。(ゼロ・サムvsノン・ゼロ・サム)
お互いに迷惑をかけていい。だから相手に謝謝。
かく言う自分は今日もうちの猫たちと非言語コミュニケーションを実施中。
モノサシを決めるということ
いきなりだが、下の2枚の写真を比べてみよう。
無茶なことを・・・とお思いだろうか?
まあ、とにかくやってみて欲しい。
”人の数を比較する”、”空の青さを比較する”、”木の数を比較する”、・・・自由にモノサシを決めれる筈だ。
しかし、これらのモノサシがなんだって言うんだ?意味がないじゃん、と思ったあなたは正しい。これから話すことは、科学でいうモノサシを決めるということを考えてみたいからだ。
例えば、筆者の専門分野である薬を比較してみる場合を引き合いに出してみる。エルロチニブとゲフィチニブという肺癌に使われる薬がある。二つの薬は共にEGF受容体という細胞増殖に関わるたんぱく質の働きを阻害して癌細胞の異常増殖を止める作用がある。つまり似たもの同士の薬である。これらを比較してみよう。
さて・・・何を比較するのか?分子量、色?色々考えられるが、がんの薬である以上、その効果を比較するのが皆の興味の湧くところであろう。そこで”効果”というモノサシで比較する。抗癌剤の効果の比較は、一般的には、平均的な生存期間とか、癌が進行しない期間をモノサシとして使う。
さて、抗癌剤の比較に使えるモノサシはこれだけだろうか?他にもある。抗癌剤の場合は副作用も気になる。例えば、皮疹の出る割合、下痢を起こす割合、発熱を起こす割合など、様々な副作用の頻度で比べられる。この様に、比較するためのモノサシは無数に存在する。しかし、どれ一つとっても全体、即ち、全てを現すことはできない。
科学は、比較する際に目的にあったモノサシを選択している。つまり、意味のあるモノサシを選んでいるということ。そしてそれは言葉によって思考の為に抽象化されたモノであり、対象の一つの側面であり、全てを包含するものではない。
科学をする最初の入り口。それは現実を見て、適切なモノサシを抽象の世界に構築することである。これには”情緒”の力、すなわち感受性が必要ということである。禅で言う”ありのままを見る”、人が自分の頭の中で言葉にする以前の世界に遊ぶということである。
今、PCの前にうちの”猫”が寝そべっている。だが、これは私やあなたの頭で抽象化された”ネコ、(=^・^=)、ねこ”とイコールではない。
科学を使いこなすには、言葉の限界、論理の限界を意識しなければならない。そして科学者になるには、論理の外の世界、現実を感じることが重要だ。
情緒の世界。現実と言葉の間。
我々は考える時、普通、言葉を使う。
その言葉の生まれる瞬間について書いてみたいと思う。
まずは、下の写真を見て欲しい。
下手くそで見るに堪えない、と思われた方は自分のお気に入りの写真でも何でもいいから別途用意して欲しい。
とりあえず自分の写真で説明させて頂くことにする。
写真を見て、なんでも良いので思い浮かんだことを言葉にして欲しい。
”きれい”、”海”、”青”、”空の青”、”海”、”紺碧”、”広々”、”行ってみたい”、”暑そう”、”懐かしい”、・・・人それぞれに色んな言葉が生まれてきたと思う。
ここで書き留めたいのは、どれが良いとか悪いとか、正解とかではなくて、言葉がどう生まれて、どういう性質のモノか?である。写真≒現実を見て、その次に我々の感じる心が在って、そのうちの一部を言葉に表わしている、ということである。
この、”現実”⇒”感じる心”⇒”言葉”の”感じる心”を”情緒”と呼ぶことにする。この”情緒”は藤原正彦先生(”国家の品格”の著者)の”祖国とは国語”の中の”情緒”や岡潔先生の一連の著作の中で登場する”情緒”と同じ意味であるし、吉田武先生の”虚数の情緒”の”情緒”でもあり、科学者にとってとても大切なものなのである。
付け加えておくならば、武道や一流のアスリートにとっても重要である。例えば、ボクシング。相手のパンチを”ジャブが来たから左にダッキングして、左からのパンチで攻撃につなげよう”などと言葉にして考えているのではなく、目で状況を判断し、適切に攻撃動作に移っていく、非言語の思考を使っている。非言語の思考の利点は言語を介さないことによる時間の短縮、スピードだけではない。先ほどの写真の例で言えば、言葉で思考しようとすると、”海⇒青”、”日差し⇒暑い”、など一つ一つバラバラに考えなければならない。一方、非言語による思考は並列に進む。全体が見渡せる。いわゆる直観というものである。これは即ち、禅でいう”ありのままを観る”ということであり、知性の源泉である。
これが無いと言語で論理的に考えるロボットのようになってしまう。そう言えば、人工知能にとって代わられ難い分野に科学、芸術、スポーツ、一流の企業経営者、というのがあったっけ。言葉による論理的思考は大切である。でも、それだけでは一流になれない。
”デカルトは何故、虹の研究をしたと思うかい?””虹が美しかったからだよ”(ファインマン)
ファインマンさんだけでなく、アインシュタイン、ポアンカレ、優れた科学者は優れた芸術家でもある。
次回は、科学者はどの様にこの直観、”情緒”を使っているかについて書いてみたいと思う。
科学者にとって関わりたくない人
自分自身偉そうなことは言えないが、科学者にとって関わりたくないタイプの人がいる。
自分が主張しているのが仮設に過ぎないとも気付かず、あれこれ主張してくるタイプ。そんな人間とは議論にもならないし、一緒に仕事をすることになったら最悪である。そういうタイプは結構、勉強ができて、知識もあったりするから、余計にめんどくさい。自分では頭が良いつもりのようだが、実績はなし。テストでよい点数を取れることぐらいか。。。こちら側からはせいぜい、辞書代わりの便利屋に過ぎないのに。
科学でやっているのは仮設と検証であって、いかに世界の原理を検証していくかなのだ。目の前に事実やデータがあって、そこから尤もらしい仮設やモデルをたてて適切な方法で検証していく。そこが科学の醍醐味であって、研究者仲間ではモデルの正しさや検証する方法を議論しているのであって、自分の説が正しいかどうかは関係ないのである。ソクラテスというか、プラントン流に言えば、科学者とは無知であること知っているから検証する人である。知識はいくらか必要かもしれないが、真実を探るという行為は知識の積み重ねではないのである。
人は知識で知るのか?心で感じるのか?
最近、と言っても一か月以上も前なのでちょっと曖昧だが、アマゾンの動画で”エクスマキナ”というAIものの映画を見た。個人的にはなかなか面白かった。
その中で、こんな感じの場面があった(字幕なのだが)。
白黒の世界に住む色の専門家の話。色の専門家は色のことなら何でも知っている。でも、住んでいるのは白黒の世界。色の付いた世界に出て、初めて色を知った、という喩え。つまり、心で感じないと本当に知ったことにならないのである。
これが情緒の世界。
”国家の品格”とか、”正解するカド(最近アマゾンで見たアニメ)”で出てくる話。
科学、芸術、そしてスポーツや一流のスポーツマン、ビジネスマンの大切にすべきもの。これはAIにはない能力。