俋俋乎耕而不顧(ちつちつことして耕して顧みず)

タイトルは荘子から借りました。論理学と東洋思想を比較しながら、科学、芸術、スポーツについて日頃感じたこと、考えたことを書いていきたいと思います。

無知の知。どんなに考えても自分が正しいと思い込んでいる人間は間違っている。

たとえどんなに勉強し、知識を学んでも、たとえどんなに論理的に自分の考えを主張しても、自分の考えが正しいと思っている以上、それは正しくない。

 

科学者はそんなことをやっている訳ではないし、芸術家でも、アスリートでも、はたまたビジネスマンでも一流になればなるほど、そんな考えを持ってはいない。と言うか、そんな考えでは一流になれない。正しいのは道を実践している者だけである。

 

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私が家に帰るとクルミがゴロゴロ喉を鳴らして嬉しそうに近寄ってくる。

きっと大好きな私が帰ってきて喜んでいるんだろう。。。よしよし、おやつをあげよう。

 

。。。家内は『私にだってやるよ。あなただけじゃないわよ。餌をおねだりしてるだけなんじゃない?うちの母親が来てた時もやってたよ。誰でも嬉しいのかも??』

 

くるみのゴロゴロの理由として考えられるのは色々。どれが正しい理由なのか?このまま、譲らないと喧嘩になる。。。それなら科学的な方法で決着をつけよう。事実をもって真実を語らせよう、という訳だ。と、声に出してしまうとこれまた喧嘩になりかねないのでここは、そっと心の中でつぶやく。

 

科学の思考方法では、クルミが私を好きでゴロゴロ言っているのか、誰にだってやるのか、餌が欲しいだけなのか、全部本当かもしれないし、全部そうでないかもしれない。またはそのうちの一部が本当で、残りは違うかもしれない。これらを仮説と言い、科学者はそれら仮説の一つ一つを検証し、真実かどうかを確かめていくのである。

 

例えば、クルミが”私のことだけを好き”という仮説を検証したいなら、”私が来た時”と対照として”家内が来た時”または”その他の人が来た時”のクルミの状態(アウトカムという)を比較する。こうやって問題を仮説に切り分け、一つ一つ検証していく訳であり、検証された結果(法則)は、現実に力をもったものとなっていく。

 

だから科学者は、一度全ての仮説を受け入れ、様々なデータを参照しつつ、もっともらしい仮説のいくつかを検証していくのであって、どの仮説(意見)が正しいとか、自分の意見こそが正しいなどと主張しないのである。そこに無知の知の自覚がある。(ソクラテスの弁明を読めば同じことが書いてある。その他、禅の話や様々な科学者も無知の知については言及しているので、興味のある方は探してみると良い。)

 

冒頭で挙げた科学者だけでなく、一流のアスリート、芸術家やビジネスマンが実践しているのは常に仮説を現実世界で試し(検証し)、現実に結果を残して来たからである。彼らには、自分の考えは正しかったが、状況が違って上手くいかなかった、という言い訳はあり得ない。そこで負けているのである。結果を残した者が正しいことをしてきたのである。そこに道がある。

 

ついでに言わせて貰うが、検証せずに仮説だけで終わってしまう、思いついた仮説をさも正しいかのように主張する人間は何も考えていない。ただ、事実を見て、理由を思いつく範囲で挙げている、言わば反射的に思い浮かべているだけである。

 

愚者ほど自分の考えに囚われ、無駄な努力をする。それはいくら論理的に考えても考えていないに等しい。思いつきに過ぎないからである。賢者は事実から真実を洞察し、正しい道を模索する。そして賢者の見出した法則は現実世界で実現する力を持ったものである。そこには無我がある。

 

神社で祀られているのは”かがみ”。真ん中の”我”を抜くと”かみ”である。現実に力を持った言葉は言霊となる。『中庸』の中に”至誠神の如し(または、通ず)”という言葉があるのをご存じだろうか。